“プラスチックの木”は悪くない。でも、恥ずかしいのです

プラスチックの木

西村清和『プラスチックの木はなにが悪いのか』への山形浩生氏の書評

西村「プラスチックの木……」書評への批判を受けて。

ぶっちゃけ、マトモに読んでません。件の本も上記記事も\(^o^)/
議論の筋としては3つ目の記事冒頭の、

「プラスチックの木はプラスチックであるからとにかくダメ」という西村の本の議論に対して、「それは結論ありきの循環論だから無意味、本物と人間には区別できないプラスチックの木ができたらどうするの」と批判した。
それに対して昆虫亀は、美的体験はそのモノの帰属するカテゴリーで左右されるから物理的に区別がつかなくても関係ない、と主張する。

な感じなのだろうと思うことにします。
読まずにw

プラスティックの木は恥ずかしいよね

何が恥ずかしいって、
「木っぽくて素敵でしょ!?」ってのが格好悪い。
サビだけ英語の曲とか、ヨーロッパ某都市の町並みを再現!とか、南アルプス市という市名くらい恥ずかしい。

コンテキストが違う

木造・木工文化のイメージに乗って、特にコスト的に有利なソリューションを作りました!!

まぁ、コスト的にそれが成り立つ場合もあるでしょう。
でもねぇ、イメージを利用するにしても、
文化の差異を無視したガサツさが偽物過ぎて格好悪いんです。

プラスチックの木や、それを使って作ろうとしているものは、
たとえ見た目が完璧に同じだったとしても、
そこにそれが存在すること自体、もう違います。

文脈、どこから来てどこへ向かうのか。
さまざまな経緯、必然や偶然を経て、成り立っている「文化」が全く違うのです。

フィクションなら成り立つ範囲は広い

江戸村や、ディズニーランドなどは、容易に成り立つでしょう。
フィクションを楽しむ前提がありますし、なにより文化を尊重しています。

プラスチックが悪いわけではない

文化の尊重も、ひょっとするとその視点さえもなく、
そこそこ再現できちゃったぜぇ!と思い込んでる姿は大変痛ましいのですが、
それは、プラスチックが悪いことも、劣っていることも意味しません。

木の文脈でプラスチックの木を語るから恥ずかしいのであって、
プラスチックの文脈で語るなら、
プラスチックはプラスチックとして、当然、素晴らしく在れます。

最終的には程度問題か!?

美しいものを集めて並べても、美しい空間になるとは限りません。
文化の違い。
例え同じ木を使ったとしても、容易に再現できるものではないのです。
もう、こればっかりはどうしようもない。

突き詰めれば、日本に欧米風の家を建てる事さえ恥ずかしい。
アレもコレも恥ずかしい。

そして同時に、恥ずかしがってばかりでは何も育ちません。
そう。文化も。
最終的には、程度問題になってしまうのでしょうか。
子供の名付けしかり、語彙の変遷しかり、
文化もまた変わるのですし。

エントロピーが増えすぎた!?

日本を含む、昨今のアジアじゃありませんが、
そのカオスな街並みはイマイチ美しくない。
変わり方が無節操で汚いのですよねぇ。
なんでこの変化が美しくないのでしょうか。

短期間にモノそれぞれが、
様々な文化を唐突に断片的にコピーし、
寄せ集まった結果だからでしょうか。
いわゆるフラット化的な出来事の副作用なんでしょうかね?

一旦こうなってしまうと、これは不可逆なのかもしれません。
綺麗かりし古き良き景観の見た目に戻したところで、それはもう偽物ですから。

では、どうすれば良いのか

相互作用にはカオス以外にも、
どんどん減る、どんどん増える、一定値をめざす、一定周期を取るなどがあります。
ちょっとしたキッカケで性質が変わることもありますので、
案外「単純なルール」を社会で共有できれば、
それなりに広い空間が、美しくかつ独創的な文化に染まり直す事もあり得ないとは言えません。

具体的には、うーん、
遠くのモノを真似ずに、物理的に近くの美しいものを真似るように心掛ける!?
カオスな文化で育っちゃった!?からか、
カオスで良いじゃんとか思うガサツな私も確実に存在します(ノ∀`)