LGBT寛容政策とオタク文化町おこし

一部に強く嫌がられる性質は、
客商売にはアリだが、住民の福祉には必ずしも直結しない。

町おこしで何かしたいのか。
嫌がる人を押し切るに足るタダシサはそこにあるのか。

克服すべき感情

LGBTに対する寛容政策は、タダシサの追及。

本能的な嫌悪を、障害や病気に対して感じてしまった経験がある。
これらは概ね、人としてのタダシサからはかけ離れた、生物的な反応に過ぎない。
実際、ちょっと慣れるだけで歪な感情も消えてなくなることが多い。

中には生理的になかなか慣れないものもあるが、
決して感情のままに虐げてよいものではなく、
人としてのタダシサ軸に照らせば、克服すべき方向に並ぶことも少なくない。

一方、オタク文化町おこしはどうか。

オタク文化をとりまく環境には、
性的弱者や倒錯者、自閉症に対する差別の内包が見て取れる。
オタク文化を嫌う源流ともなるそれらへの忌避もまた、
人として克服すべき感情だろう。

 

未だ克服すべき段階にない感情

だが、中には「未だ克服すべき段階にない」ものもある。

その筆頭が、性描写。

LGBTの議論は、

定義上、性について深く語らざるを得ない。
だがそれは議論であって、発露ではなく、
必ずしも描写そのものを必要とはしない。

逆に、露骨な性描写は忌避されてしかるべきだろう。

オタク文化町おこしは?

性的アピールがなければ成り立たないコンテンツならば、
文化をとりまく差別構造とは別に、
コンテンツの性描写自体が忌避されてしかるべきだ。

逆に「未だ克服すべき段階にない」感覚を刺激する描写が含まれていないならば、
胸を張るべきだろう(他意なし)。

はたして、

その「押し切り」に、タダシサはあるやいなや。

“プラスチックの木”は悪くない。でも、恥ずかしいのです

プラスチックの木

西村清和『プラスチックの木はなにが悪いのか』への山形浩生氏の書評

西村「プラスチックの木……」書評への批判を受けて。

ぶっちゃけ、マトモに読んでません。件の本も上記記事も\(^o^)/
議論の筋としては3つ目の記事冒頭の、

「プラスチックの木はプラスチックであるからとにかくダメ」という西村の本の議論に対して、「それは結論ありきの循環論だから無意味、本物と人間には区別できないプラスチックの木ができたらどうするの」と批判した。
それに対して昆虫亀は、美的体験はそのモノの帰属するカテゴリーで左右されるから物理的に区別がつかなくても関係ない、と主張する。

な感じなのだろうと思うことにします。
読まずにw

プラスティックの木は恥ずかしいよね

何が恥ずかしいって、
「木っぽくて素敵でしょ!?」ってのが格好悪い。
サビだけ英語の曲とか、ヨーロッパ某都市の町並みを再現!とか、南アルプス市という市名くらい恥ずかしい。

コンテキストが違う

木造・木工文化のイメージに乗って、特にコスト的に有利なソリューションを作りました!!

まぁ、コスト的にそれが成り立つ場合もあるでしょう。
でもねぇ、イメージを利用するにしても、
文化の差異を無視したガサツさが偽物過ぎて格好悪いんです。

プラスチックの木や、それを使って作ろうとしているものは、
たとえ見た目が完璧に同じだったとしても、
そこにそれが存在すること自体、もう違います。

文脈、どこから来てどこへ向かうのか。
さまざまな経緯、必然や偶然を経て、成り立っている「文化」が全く違うのです。

フィクションなら成り立つ範囲は広い

江戸村や、ディズニーランドなどは、容易に成り立つでしょう。
フィクションを楽しむ前提がありますし、なにより文化を尊重しています。

プラスチックが悪いわけではない

文化の尊重も、ひょっとするとその視点さえもなく、
そこそこ再現できちゃったぜぇ!と思い込んでる姿は大変痛ましいのですが、
それは、プラスチックが悪いことも、劣っていることも意味しません。

木の文脈でプラスチックの木を語るから恥ずかしいのであって、
プラスチックの文脈で語るなら、
プラスチックはプラスチックとして、当然、素晴らしく在れます。

最終的には程度問題か!?

美しいものを集めて並べても、美しい空間になるとは限りません。
文化の違い。
例え同じ木を使ったとしても、容易に再現できるものではないのです。
もう、こればっかりはどうしようもない。

突き詰めれば、日本に欧米風の家を建てる事さえ恥ずかしい。
アレもコレも恥ずかしい。

そして同時に、恥ずかしがってばかりでは何も育ちません。
そう。文化も。
最終的には、程度問題になってしまうのでしょうか。
子供の名付けしかり、語彙の変遷しかり、
文化もまた変わるのですし。

エントロピーが増えすぎた!?

日本を含む、昨今のアジアじゃありませんが、
そのカオスな街並みはイマイチ美しくない。
変わり方が無節操で汚いのですよねぇ。
なんでこの変化が美しくないのでしょうか。

短期間にモノそれぞれが、
様々な文化を唐突に断片的にコピーし、
寄せ集まった結果だからでしょうか。
いわゆるフラット化的な出来事の副作用なんでしょうかね?

一旦こうなってしまうと、これは不可逆なのかもしれません。
綺麗かりし古き良き景観の見た目に戻したところで、それはもう偽物ですから。

では、どうすれば良いのか

相互作用にはカオス以外にも、
どんどん減る、どんどん増える、一定値をめざす、一定周期を取るなどがあります。
ちょっとしたキッカケで性質が変わることもありますので、
案外「単純なルール」を社会で共有できれば、
それなりに広い空間が、美しくかつ独創的な文化に染まり直す事もあり得ないとは言えません。

具体的には、うーん、
遠くのモノを真似ずに、物理的に近くの美しいものを真似るように心掛ける!?
カオスな文化で育っちゃった!?からか、
カオスで良いじゃんとか思うガサツな私も確実に存在します(ノ∀`)

グルメレビューサービスの評価の肝は……

飲食店ランキングサイトに、
ヤラセレビューを投稿し不正にスコアを稼ぐ問題がニュースになりました。

人気サイトの食べログで順位操作 やらせ39業者を特定
本日の報道内容に関して

評価問題

レビューサービス以外にも、検索結果や、ネットオークション等、
方々に類似の問題があります。
視野を広げれば、人事なども最たる評価問題でしょうか。

この手のネットサービスの肝の一つは「効率化した評価」です。
スパムに強い検索エンジン
詐欺に強いネットオークション
等々、それぞれ紆余曲折の中で磨き上げられてきたサービスと言えます。

善意の投稿を前提にできない

野良掲示板のような、
無制限投票による評価が権威を持ち得た時代は終わっています。
各種偏見や工作に弱すぎるからです。

検索エンジンは「膨大な分母」を活かして、
数理的に異常を浮き彫りにすることでサービスを成り立たせました。

オークションは、取り引きに必ず伴う「結果」を数値化し、
悪意を判別するためのロジックを。

ネット店舗のレビューは、
「購入者」という前提をもって最低限のフィルタリングをしています。

なんらかの「評価の肝」があると明らかに有利ですね。

食べログの肝はなにか

食べログにとっての肝は、
おそらく「写真」なのでしょう。

そういえば、その昔、写真を軽視した新聞社が、
ヤラセで染まって倒れた話しを側聞した記憶があります。

「位置情報」を活かした勝手チェックインなんかも面白いかもしれません。

しかし、Amazonはいつまであのままなんですかね(・ω・)

自炊業者を訴えたアノ原告団をなんとかしたい

「自炊」代行2社にスキャン差し止め要求 東野圭吾さんら作家が提訴

気持ちは分かるし、正義もある。
でもねぇ、
『私的複製に該当しないことは明らか』……そこが争点では、ひょっとすると負けるんじゃないのかな。
少なくとも無駄な血が流れる。

考え得る、ビジネスモデルは4種類。

A)客持ち込みの1冊目だけをスキャンし、重複分はその複製を納品
B)スキャン用の本を貸して客がスキャン
C)スキャン機材を客に貸して、客持ち込みの本をマトモに全部スキャン
D)客の本をマトモに全部スキャン

問題にすべきは、AとB。おそらく既存の法律で充分に罰せられるはず。
一方、C,Dを罰するのは筋が悪いと思われるし、
それで作家らが直接損をすることはなく、
Dに至ってはまず赤字のはずだ。

A,BのC,Dに対する決定的な違いは、
事実上、無許可の電子出版な点。
そこを突けば、シンプルな戦いになると思うのだけれどもなぁ。

彼らが、電子出版に対して敵意や偏見があると考えるよりは、
無理解、無知が主因だと捉えるべきなのだろうけど、
それはそれで脱力してしまう。

「ゼロベース思考」だけではおそらく足りない

ちきりん等々、
ゼロベース思考という言葉をよく耳にしますが、
そもそも論や、1,2,3歩戻っての再構築、
もしくは脱構築とどう違うのでしょうかね。

単なるコンサル用語なんでしょうか。
用語か比喩にせよ、
どの辺をゼロとしたいのかは気になります。

深いところからの再考察は素晴らしいし有用な手段でもあります。
同時に、言葉があり、無意識に根付いた文化や習慣があり、立場があり、
さまざまな階層が「そもそもの位置」=「ゼロの足場」となりえます。

足場が違えば、例えばそれは、
マクロの組み直しやコード最適化であったり、
ライブラリの見直し、新言語の習得、
さては、新言語の創造だったりするかもしれません。

つまり「ゼロペース思考」は手段の一つに過ぎず、
その仮定で、
「新しい概念を発見」することこそが目的なのではないかと。

そして、その新しい概念をもって、
ローカルミニマム打破を試み、より深みに至らんみたいな。

なんと言いますか、
その辺に、できれば体系的につなげていければ、
各思考の重さもかなり変わるかなみたいなみたいな。

無神論者が信用されないプロトコルはSNSで変わるか

「誓い」プロトコルは、信頼関係の構築を短縮する

北米、無神論者の信頼度は最底辺 大学調査で明らかに

  • 嘘を付かない
  • 約束は守る

この2件を「信頼」の中身だと仮定したとき、
互いの信頼は、あらゆる活動を左右する大きな要素で、
おそらく、あればあるほど取り引きコストを下げるすばらしいものです。

現実の取り引きやいさかいでは「嘘ではない根拠」が存在しないことはいくらでもあり、
また、どこにでも、だれにでも「初めて」があります。

信用を構築する手段はいろいろ考えられますが、とりあえず、
「神に誓える」相手は信用しやすい。
ただし、大前提として「神を敬い恐れる」心理が刷り込まれていなくてはなりません。

つまり、

  • 敬虔な信者が
  • 誓いを立てた

そりゃ、まぁそれなりに信じてやっても良いよね。
すくなくとも、そうでないよりは信頼関係構築のプロセスは短縮できるよね。
というのが「敬虔」な連中のプロトコルなのでしょう。

特殊なプロトコルは、極端な場合に有用か

アメリカではクレカの履歴が大変重視されているとか。
支払を誓っても、金も家も貸してもらえないようで、
誓いだけでは世間は渡らせてもらえないのですね。
まぁ、当然ですよね。
金銭的に損をしたくなければ、履歴や状況を重視せざるを得ません。

では、誓いプロトコルは不要なのか!?

  • 論理的に判断できる要素が少ない、最初の最初、カンの世界
  • 論理的に証明のしようがない、最後の最後、決断の世界

そんな極端な状況で重さを増すが件のプロトコルなのかもしれません。

「普段の行い」プロトコルだ、おそらく我々は

我々というか私。
いわゆる無神論者に分類されるだろう私のソレはなにか、
信頼関係構築の担保、誠実さを計る方法はなにか。

ビジネスでは、じっくり考えるなり、
それなりのコストをかけて!?しっかり計算しますが、
身の回りの些細なできごとに用いる簡易プロトコルの判断基準は、
「普段の行い」でしょうか。

お天道様じゃありませんが、私もみているのです。

  • 普段から、嘘を付いていないか
  • 普段から、約束を守っているか

信じようが誓おうが関係ありません。
結果から判断する方法です。
クレカ履歴の簡易版とも言えるかもしれません。

このプロトコルには大きな弱点がありますよね。
そう。
「普段の行い」を知らない相手は計れない!

「評判」プロトコルを再構築する時代

信用できない=嫌い ではありません。
信用できないなりの関係しか持てなくて残念なだけです。

しかし、残念ながらも、判断して進まなければならないなら、
それなりに信用できる人が見た「普段の行い」を、
間接的に取り込んだりするのではないでしょうか。

「普段の行い」プロトコルを薄めて広げたようなこれは、使い勝手こそ良いのですが、
風潮に流されやすい等々、デマに繋がる、成極化する……などなど、
弱点も山の様にあります。

ゴキッとした誓いプロトコルと、
ぬめっとした評判プロトコルは、
対極なのかもしれません。
……一周して同じ位置にあるようにも見えますけどね。

SNSが信頼プロトコルを変える!?

SNSが進化すれば、

・「普段の行い」もより多く知ることができる!?
・「評判」の確度も上げられる!?

現状、そうなっているとはまだまだ言えません。
また、ネット上の人格と、実際に関係する際の人格との差異に戸惑うこともあるかもしれません。

見られる履歴は単純に増え続けそうですし、(個人認証機関を核に自己情報制御システムを法的な~~なSF方向にも可能性を感じる)
SNSが、
ただの「相互作用加速器」ではなく、
相互作用を「使える方向にコントロール」して更なる価値を生み出せるなら、
きっと、ショリッっとした「新」プロトコルが生まれることでしょう。

タイトル的には、
そうですね。

新プロトコルは生まれそう。
でも「誓い」プロトコルは並存できるので、
やっぱ、微妙に信用されないままなんじゃないかな\(^o^)/なんだよそれ

オッサンは昼、徘徊できない

昼間のオッサンは怪しまれる

個人差もあるとは思います。
私の場合、36歳くらいから、世間の目が気になる様になりました。
おそらく多分に自意識過剰であり、
実際のところ他人様の眼中には入っていないのでしょうが、
おそらく似た様な境遇なのだろう人間が、時折見せる、
岩をひっくり返した際の虫のような、サササッっとした挙動には強く共感を覚えます。

オッサンは武装する

私の住んでいる地域はいわゆるベッドタウンです。
商業施設もあるのですが、
どんな人がいてもおかしくない都心ほどの多様性を醸し出すまでには至っていません。

そのような中「良識のあるオッサン」は、
スーツなり作業服なり、存在理由を記号化した身なりで偽装、いや武装をしています。
(夜ならば、体を鍛えている風のジャージとiPodでしょうか)

事実はどうあれ、存在理由を想像させるに足る身なりの無難さは偉大です。

何を警戒しているのか

おそらく、裏返しなのでしょう。
私自身が警戒しているから、警戒される方向にも意識が向いた。
私自身が馬鹿にしているから、馬鹿にされる方向にも意識が向いた。

一つ。
子供を授かったのが30代後半。
どうしても子供を守る視点で周囲を見ます。
つまり、我ながらアヤシイぞと。

二つ。
働いていないことに対する恥ずかしさ。
いや、働いていますが、働いていないと思われることが恥ずかしいのは、
生産していないひと・ことを心の底で馬鹿にしているだろう心理の裏返しでしょう。
(諸事実関係は別の問題なので触れません)
在宅自営の俺、我ながらアヤシイぞと。

覚悟不足なのか!?

前者は、それなりの身なりで、
後者は、それなりの稼ぎで、
対処できるでしょうか。

つまり、もっと身なりを整えて、もっと稼ぎなさい!と\(^o^)/
一方で、そこまで世間体にこだわるのもアホ臭く。

波風を立てずにかわすか、正面から受けきるか……の二択は極端ですが、
間をさまようにせよ、両方向の覚悟がそれなりに必要そうです。

実はオッサンだけではない

考えてみれば、オッサンに限りませんよね。

未成年であれば、学校のある時間に出歩くと不審がられるでしょうし、
60を過ぎれば、デイウォークこそ悠々自適に見えますが、
ナイトウォークでは痴呆と間違えられない身なりが必要かもしれません。

まぁ、吸血鬼の正体なんてそんなもんですよ(違